『ホモ・デウス』感想|知的好奇心を揺さぶられ、「人間とは何か」を考え続けた

ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』を聴いた。

同氏は『サピエンス全史』が有名だが、実は本書の方が隠れた名著ではないか。知的好奇心をここまで刺激されるとは思わなかった。素晴らしい読書体験だった。

ここでは内容を細かく追うより、聴きながら何を感じ、どこで驚き、何に引っかかったのかを中心に綴っていきたい。

目次

未来予測の本だと思っていた

未来予測の本であり、歴史の本であり、科学の本でもある。しかし上下巻を通して私の中に一番強く残っているのは、これは「人間とは何か」を考える哲学の書だった、という感覚だ。

『サピエンス全史』に続き、本書ではざっくり言えば、サピエンス(賢い人)から、その先のデウス(神のような人)へと人間が進んでいく未来が描かれる。

ただ、ハラリは未来を予言するように一本道を示しているわけではない。

歴史、宗教、生物学、脳科学、経済、AIなど、さまざまな材料を持ち込みながら、「そもそも人間とは何なのか」「自由意志とは何なのか」「我々が信じている価値や意味は、どこから生まれているのか」と問い続ける。

その思索の道筋が、実に面白いのだ。

人間を特別扱いしないハラリの視点

上巻を聴いている途中から、ハラリという人の思考スタイルが少し見えてきた気がした。

人間を特別扱いしない。

人間、動物、そしてAIまでを、同列に、フラットに並べて考える。

我々人間は、どうしても人間を世界の中心に置いて考える。

知性、感情、友情、愛情、道徳、自由意志。どこかで、それらを人間だけが持つ高尚なものだと思っている。

ハラリは、そこを平然と崩してくる。

例えば、血吸いコウモリの話が印象に残った。

餌となる血を得られなかった仲間に、自分が得た血を分け与える。それだけなら「動物にも助け合いがあるのだな」で終わる。

ところが、過去に誰からどれだけ分けてもらったかまで記憶し、それに応じて返すという。コウモリですら、かなり精緻な互恵関係がある。

こういった事例をもとに、誠実さや助け合いとは、本当に人間だけに備わった崇高な性質なのかと考えさせられる。我々人間もまた、動物と同じフラットな地平へ引き戻されていくのだ。

ハラリはこういう具体例をさらりと置き、人間中心の思考を一度ゼロに戻してくる。この視点が、ハラリの大きな魅力だと思う。

感染症やバイオテクノロジーについて語られる部分にも驚いた。

本書は新型コロナ以前に書かれている。それなのに、その後に世界が経験するパンデミックを予見していたかのような記述がある。

もちろん未来を当てたという話ではない。

歴史を長い時間軸で眺め、科学技術や社会構造の延長線上を考えれば、こうした事態が起こり得ることは見えてくる。そういうことなのだろう。

つまり、ハラリの思索はリアルな未来につながっているのではないか、と思わされるのである。

一方で、明確な違和感もあった。

宗教、神、魂、自由意志について論じるとき、ハラリにはかなり唯物論的、科学的自然主義的な傾向があるように感じた。

現在の科学で説明できないものを、「まだ説明できない」とするよりも、「おそらく存在しない」という方向へ少し寄せていると感じる。

私はそこまで割り切れない。

科学では説明できなくても、この世界や宇宙、生命のあり方にサムシング・グレートを感じるし、そこに人間が物語を紡いできた気持ちはよくわかる。

魂についても、私はその存在を否定も肯定もする立場ではない。どちらかといえば、あるような気がする。

だから、このあたりではハラリと距離がある。

しかし、この違和感があったからこそ、さらに深く読み進めることになった。

資本主義もヒューマニズムも「物語」として見る

ハラリのコアの考え方として、人間は「真実」だけで巨大な社会を作ってきたのではなく、そこに「虚構」を組み合わせた物語を共有することで、大人数を結びつけてきたというものがある。

宗教、国家、貨幣、企業。

自然界のどこかに物理的に存在しているわけではない。しかし、多くの人がその物語を信じることで、巨大な力を持つ。

本書では、この考え方がさらに経済やヒューマニズムへと広がっていく。

資本主義についての説明は、その代表だった。

過去には、世の中に存在する富の総量はおおむね決まっていて、誰かが豊かになれば、その分誰かが貧しくなる、と考えられていた。

ところが近代になると、「未来は今より豊かになる」と人々が信じることで信用が生まれるようになる。

未来の成長を信じるから、お金を貸す。
借りた側はその資金を投資する。
投資によって事業が拡大し、実際に経済が成長する。

つまり、成長するから未来を信じるのではなく、未来は成長すると信じるから成長が起こる。

これは、経済を学んできた人にとっては基本的な話なのかもしれない。

しかし、ハラリが彼独自の文法と文脈で描くと、妙に面白いのである。

資本主義さえ、単なる経済制度ではなく、人類が共有する巨大な「物語」として見えてくる。

こういう切り口に出会うたびに、「ああ、そう見るのか」と唸らされた。

ヒューマニズムについての説明もそうだった。

かつて、善悪や真理の判断は、神や聖書、宗教的権威に委ねられていた。

それが近代になると、

「あなた自身はどう感じるのか」
「自分の内なる声に従え」

という方向へ大きく変化していく。

牧師に答えを求める時代から、自分自身の感情を掘り下げる時代へ。

ヒューマニズムという言葉には、どこか道徳的な響きを感じる。しかしハラリは、それを「自分の内なる声に従う」という、個人を中心に据えた思想として描いてくる。

知識についても、

「知識=聖書×論理」

だったものが、

「知識=経験×感性」

へ変わったと表現する。

こういった整理のセンスまでも秀逸で、引き込まれるのだ。

自由意志は本当に存在するのか

そして、上巻から感じていた違和感が、下巻の「自由意志」の話で一気に表面化した。

ここは本当に頭がフル回転した。

人間の欲求や判断は、本当に「自分」が決めているのか。

ハラリは、DNA、外部環境、脳内の化学反応や電気信号によって生じているだけではないのか、と説く。

しかし、普通に考えれば、まず自由意志が存在し、その結果が脳内の反応として出力される、と考えたくなる。

だから、「自由意志という源」と「それが脳内で出力されるメカニズム」を混同しているのではないか、と感じた。

ところが、てんかん患者やラットの実験で、外部刺激や脳への介入によって、「欲求そのもの」が変化する例を示される。

そうなると話はややこしくなる。

「自分が欲したから行動した」のではなく、その「欲した」という感覚そのものが、人間という装置と、その人を取り巻く環境の中からアルゴリズム的に生成されているのではないか。

そう言われると、簡単には否定できない。

ここで私はかなり揺さぶられた。

それでも、私は自由意志についてハラリとは完全には同意しない。

一瞬だけを切り取れば、人間は外部刺激に反応する自動装置のようにも見える。

しかし、人間をもっと長い時間軸で見たらどうだろう。

人は経験を振り返る。

失敗から学ぶ。

考え方を変える。

習慣を変える。

付き合う人を選び、住む場所を選び、ときには自分が置かれる環境そのものを変えていく。

そうした自己形成を何年、何十年と重ねた結果として、今の自分がいる。

瞬間的な意思決定だけを切り取るのではなく、n数を重ね、時間軸で人間を見るならば、自由意志の影響がまったくないとは、私にはどうしても思えない。

もし魂というものが存在するなら、そこに何らかの自由意志が介在しているのではないか。私は今のところ、その可能性を捨てきれない。

しかし、だからこそ本書は面白かった。

ハラリに同意することが面白いのではない。

彼の思索を追いながら、「ここまでは納得する」「いや、ここは違う」「でも、このエビデンスを出されると簡単には否定できない」と、自分自身の考えを引っ張り出される。

これほど本と格闘した感覚は、なかなかない。

SFだった未来が、現実味を帯びてくる

そして後半、話はAIやアルゴリズムへと進んでいく。

ここでまず驚かされたのは、GoogleやAmazonをはじめとする巨大IT企業が、圧倒的に便利なサービスを提供する一方で、その代わりに私たちから膨大な情報を集め続けている、という構図だった。

検索履歴、購買履歴、移動、閲覧、クリック。

便利さと引き換えに、私たちは自分自身についての情報を差し出している。言ってみれば、情報の搾取でもある。

しかも、その情報はただ蓄積されているだけではない。

アルゴリズムとして応用され、人間の行動や嗜好を予測するために使われる。

人間は忘れる。しかし機械は忘れない。

膨大なデータを蓄積し、同じ条件では高い再現性で判断し続ける。

そう考えていくと、ハラリが繰り返す「人間もまたアルゴリズムなのではないか」という考え方が、急に現実味を帯びてくる。

人間の意思決定も、DNA、経験、環境、感情、記憶など、無数の要素から導き出される反応の積み重ねにすぎないのだとしたら、人間も所詮はアルゴリズムの総和なのかもしれない。

だとすれば、人間より多くを記憶し、人間より高い精度で予測し、人間より安定して判断できるアルゴリズムが現れたとき、何が起こるのか。

いつしか、本人よりも本人のことを理解し、何を買うべきか、誰と付き合うべきか、どんな仕事を選ぶべきかまで、アルゴリズムに委ねるようになるのではないか。

ここまで来ると、「AIが人間を支配する」というSFの世界が、荒唐無稽な空想には思えなくなってくる。

怖いのは、ハラリが単にそう予言しているからではない。

彼の思考を一段ずつ追いかけていくうちに、「確かに、その延長線上にはそういう未来もあり得る」と、自分自身まで納得しかけてしまうことだ。

そして現在、この本が書かれた当時には一般化していなかった対話型AIが現れた。

今や人は、検索履歴や購買履歴だけではなく、悩み、価値観、仕事、家族、自分でも整理できていない感情や思考までAIに語る。

「アルゴリズムが本人以上に本人を理解するかもしれない」という話を、未来予測として読むだけでは済まなくなっている。

実際に対話型AIを使っていると、その片鱗を体感してしまうことがある。

ハラリが描いたSFのような未来は、いつの間にか、こちら側へかなり近づいているのではないか。

そこに、驚きと同時に、かなりの不安を覚えた。

私にとって『ホモ・デウス』は哲学の書だった

最後に、本書を聴いていて何度も感じたのは、ハラリが大きなテーマを、何気ない一文や具体例としてさらりと置いていくことだ。

例えば、「万事はただの確率論だからだ」とさらりと言い切る。陰謀説についても、あり得ないと軽くいなす。

その場では「なるほど」と通り過ぎても、立ち止まって考えると、その下から大きな議論が現れる。

本書は単に情報量が多いのではなく、深い思索への入口が、とにかく多いのだ。

また、私はハラリの考えに全面的に同意したわけではない。神や魂、自由意志については、最後まで距離があった。

それでも、いや、だからこそ面白かった。

同意し、驚き、反発し、また考え直す。その過程で、いつしか自分自身もハラリの問いの中に入り込んでいた。

私にとって『ホモ・デウス』は、未来予測の本でも、歴史書でも、科学書でもある。

しかし何より、「人間とは何か」を考え続ける哲学の書だった。

繰り返しになるが、知的好奇心をここまで刺激された本は久しぶりだった。

文句なしに、素晴らしい読書体験だった。

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この記事を書いた人

📚 オーディブルで学びと成長を楽しむアラフィフブロガー
✨ 自己啓発・英語学習・AI活用
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