その1では、チェルノブイリ原発事故を引き起こした技術的欠陥と組織の隠蔽体質、そしてソ連という国家の崩壊について考えた。
しかし、ドラマを観終えて気になったのは、それだけではない。
あの原発や住宅街はどこで撮影したのか。
なぜ登場人物はロシア語ではなく英語を話しているのか。
あるいは、隠蔽体質の全体主義国家で起きた事故の内情が、なぜこれほど具体的に残されていたのか。
一つひとつ調べていくと、このドラマ自体が、埋もれかけた事実と人々の記憶を丹念に掘り起こした作品だと分かってきた。
これらを、その2でまとめていきたいと思う。
あの原発と住宅街はどこで撮影されたのか
映像を観て最初に驚いたのは、原発施設や住宅街の異様なリアリティだった。
巨大な発電所、古びた配管、薄暗い制御室、無機質な集合住宅。どれも映画のセットには見えず、本物のソ連時代の施設を使っているように感じた。
実際、主要な撮影地はリトアニアだったようだ。
原発の撮影に使われたのは、現在は運転を停止しているイグナリナ原子力発電所である。
この施設はチェルノブイリと同じ「RBMK型原子炉」を採用していた。
一方、原発労働者が暮らしていたプリピャチの街並みは、首都ビリニュスのファビヨニシュケス地区などで撮影された。
旧ソ連時代の集合住宅が残り、当時の空気を再現するのに適していたという。
なお、すべてが既存施設ではなく、破壊された原子炉や制御室、地下施設などには、スタジオに制作したセットも組み合わせている。
しかし、実物の原発、旧ソ連の建築物、現地の住宅街を土台にしたことで、画面全体に作り物では出せない質感が生まれた。
撮影は約40カ所で行われ、5,000人以上が参加したようだ。現地のエキストラまで含め、旧ソ連圏の生活感そのものを映像に取り込んだことが、あの再現性の高さにつながったのだろう。
この再現性の高さだけで、知的好奇心を喚起される。実際に見たことがない当時のソ連に、なぜか確かなリアリティを感じるのだ。
戦略は細部に宿る。舞台装置を見ているだけで、胸が踊るのである。
原発事故なのに、なぜ防護服があんなに軽装だったのか
もう一つ驚いたのは、原発の職員、事故直後に現場へ向かった消防士や作業員の装備である。
原子炉が爆発しているのに、着ているものは普通の消防服や作業服にしか見えない。
背景には、現場の人間に危険性が十分伝えられていなかったことがあるようだ。
これは日本でも似たような話があった。福島原発事故以前、「原発は安全である」という建前から、周辺住民へのヨウ素剤の事前配布は十分に進まなかった。
事故に備えることが、事故の可能性を認めることになるからだ。
無謬性に縛られ、必要なリスクヘッジができなくなる構図は、ソ連だけの話ではなかったのだ。
消防士たちは、発電所で火災が発生したという認識で駆けつけた。炉心が破壊され、強い放射線を出す物質が周囲へ飛散しているとは、知らされていなかった。
さらに、防護服そのものにも限界がある。
一般的な防護服は、放射性物質が皮膚や衣服に付着したり、体内へ入り込んだりすることを防ぐためのものだ。強いガンマ線まで、薄い防護服だけで遮断できるわけではない。
本当に必要だったのは、適切な装備に加えて、線量の把握、立入区域の管理、滞在時間の制限、そして何より「何が起きているのか」という正確な情報だった。
その情報が隠されていた以上、現場の人間は、見えない危険にほとんど無防備なまま送り込まれることになった。
ゴルバチョフの台詞に表れた国家の本音
作中で印象に残った人物の一人が、当時のソ連最高指導者ミハイル・ゴルバチョフである。
演じたのは、スウェーデン生まれの俳優デヴィッド・デンシック。顔つきや雰囲気が本人によく似ており、登場した瞬間に「あ、ゴルバチョフだ」と分かった。
『裏切りのサーカス』や『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』などにも出演している俳優だが、本作では限られた出番の中で、巨大国家を率いる指導者の威圧感と焦りを表現していた。
とくに印象的だったのは、「周辺諸国に謝罪もしなければならない……」という幹部会議におけるセリフ。
全体主義体制においても、なんでも強硬に、秘密にというわけではないようだ。国家のリーダーとしての苦悩がよく表現されていた。
なぜロシア人の役を英語で演じているのか
舞台はソ連なのに、登場人物たちは英語を話す。しかし、建物の表示や一部のセリフはロシア語である。舞台の再現性は高い一方で、このチグハグな感じが気になった。
主要キャストも、英国や北欧出身の俳優が中心だ。
ジャレッド・ハリスは英国、ステラン・スカルスガルドはスウェーデン、エミリー・ワトソンは英国の俳優である。
最初は、なぜロシア語やウクライナ語で撮影しなかったのかと思った。
しかし、世界中の視聴者に届ける作品として、英語を共通言語に選んだのだろう。そのうえで制作陣は、英語にわざとらしいロシア訛りを加えることも避けた。
無理にロシア人らしさを演出すれば、観客の意識が人物の恐怖や葛藤ではなく、その不自然な話し方に向いてしまうからだ。
要するに、この作品の英語は、視聴者のためにソ連の人々の会話を翻訳して聞かせる仕組みだと考えればいい。言語の忠実な再現より、人間の感情を自然に伝えることを優先したのである。
この柔軟さとバランス感覚は個人的に評価したい。
主要人物には英国・北欧の実力派を起用し、現地の街並みやエキストラにはリトアニアの環境を生かす。その組み合わせによって、言語と現実味の両方を成立させた。
地下へ向かった3人の作業員
作品の中でも、とくに胸を打たれたのは、原子炉の地下へ入って排水用の弁を開ける場面だった。
地下にたまった水と高温の物質が接触すれば、さらに深刻な事態を招くおそれがある。誰かが危険な地下へ入り、設備を操作しなければならない。
作中では志願者が求められ、若い作業員が手を挙げるのだ。
これ以後も、幹部から石炭工まで、続々と現場に入っていく。
これはもはや災害を超えた戦争であったとわかる。
最前線の者はもはや逃げられない。命を賭して役割を全うする覚悟を強いられる。
そこにいるのは天命であり、自分が役割を全うすることで、故郷や家族が守られる。逃げるわけにはいかない。そういう心境だろう。
なお、エンドクレジットであの3人が任務で死亡したわけではなかったと分かる。
あれは胸が熱くなった。
3人はアレクセイ・アナネンコ、ワレリー・ベスパロフ、ボリス・バラノフ。長く「決死の任務で全員死亡した」と語られることもあったが、実際には3人とも任務後に生還している。バラノフは2005年に亡くなったが、事故から約19年後のことだった。
さて、実は史実にはドラマとの違いもあるようだ。
アナネンコ本人は後年、あの任務について、自分から劇的に志願したのではなく、上から指示されて必要な作業を行ったと説明している。
どちらにせよ、なんとも言いようのない切ない話なのだ。
全体主義国家の事故なのに、なぜ記録が残ったのか
ここで不思議に思った。
ソ連は情報統制の厳しい全体主義国家だった。それなのに、なぜ現場の会話や事故処理の過程、内部の対立まで、分かっているのだろうか。
理由の一つは、事故があまりにも巨大で、国内だけで隠しきれなかったことのようだ。
放射性物質は国境を越え、国外でも検出された。事故の存在そのものを否定し続ければ、かえって国際的な不信を強める。
もう一つは、ゴルバチョフ政権が進めていたグラスノスチ、つまり情報公開政策である。
体制を維持するためにも、一定の事実を認め、国民や国際社会の不信を和らげなければならなかった。いわば、圧力を逃がすための「ガス抜き」でもあったのだろう。
さらに、事故から約5年後にはソ連そのものが崩壊する。その後、当事者への聞き取りや資料の公開が進み、国家が独占していた情報が少しずつ外へ出てきた。
ただし、ドラマに出てくる会話のすべてが記録されていたわけではない。複数の証言や資料をつなぎ合わせ、人物や場面を再構成している。
たとえば、女性科学者ウラナ・ホミュックは実在の一人の人物ではなく、事故原因の解明に関わった多くの科学者をまとめた創作上の人物である。
史実をもとにしながら、視聴者に伝わる形へ整理する。その境界を意識して観ることも、この作品を理解するうえでは大切だ。
レガソフの録音テープとグバレフ
レガソフが残した録音テープも、事実が外へ伝わった重要な手がかりである。
事故から2年後、レガソフは自ら命を絶った。その前後に残された記録には、事故の背景や原子力行政に対する批判が含まれていた。
その内容の一部は、1988年5月、ソ連共産党の機関紙『プラウダ』に掲載された。
ここで名前が出てくるのが、レガソフと親しかったジャーナリスト、ウラジーミル・グバレフである。科学分野の取材に携わり、チェルノブイリ事故を題材にした作品も手がけていた人物だ。
注目すべきなのは、それが国外の反体制メディアではなく、体制側の新聞で伝えられたという点である。
事故を覆い隠すだけでは、国際的にも国内的にも信頼が持たない。そこで、体制側が管理できる範囲で情報を公開し、批判を受け止めようとした。
グラスノスチの下で、国家の内部から、国家自身の問題が限定的に表へ出てきたのである。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが残した人々の声
このドラマの土台となった重要な資料の一つに、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著作がある。
彼女はベラルーシの作家・ジャーナリストで、2015年のノーベル文学賞受賞者。1997年に刊行された『チェルノブイリの祈り』では、事故を経験した人々の証言を丹念に集めた。
消防士の妻、避難した住民、兵士、作業員、遺族。
国家の公式記録に残りにくい人々が、何を見て、何を感じ、何を失ったのか。
彼女がすくい上げたのは、原子炉の構造や政治判断だけでは見えてこない、人間の側から見たチェルノブイリだった。
あの、消防士とその妻の苦しいエピソードにも、こうした証言が反映されている。なお、この妻の演技は大変素晴らしく、原発の現場と並行して描かれる場面に激しく引き込まれた。
歴史は、政府文書や事故報告書だけでは完成しない。
誰かが残した録音テープ。誰かが書いた記事。そして、名もなき人々の記憶を何年もかけて聞き取った作家。
それらが重なったからこそ、事故の全体像が少しずつ形になった。
クレイグ・メイジンは、どうやってこの物語を書いたのか
脚本と製作を担当したのは、クレイグ・メイジンである。
意外なのは、もともと『ハングオーバー!!』シリーズなど、コメディ作品の脚本でも知られていた。
その彼が、チェルノブイリ事故に関する記事をきっかけに興味を持ち、資料を調べ始めた。
事故報告書、当事者の証言、歴史資料、レガソフの記録、アレクシエーヴィチの著作。そうした膨大な材料を読み込みながら、事故そのものだけでなく、その中にいた人々の物語を組み立てていった。
大きな事故が起きた。
その事実だけなら、多くの人が知っている。
しかし、誰が何を隠し、誰が警告し、誰が現場へ向かい、誰が記録を残したのか。そこまで知っている人は少ない。
メイジンは、その空白を物語にした。
後に『THE LAST OF US』でも中心的な制作を担っているが、『チェルノブイリ』ですでに、人間の感情と社会構造を重ね合わせる力量がはっきり表れていた。
監督と俳優たちの仕事
全5話を監督したのは、スウェーデン出身のヨハン・レンクである。
『ブレイキング・バッド』などの演出にも携わった監督で、華美な演出を抑えながら、薄暗い室内や無機質な建物を通じて、ソ連社会の閉塞感を積み上げていった。
レガソフ役のジャレッド・ハリスは、『ザ・クラウン』でエリザベス2世の父、国王ジョージ6世を演じた俳優だ。
シチェルビナ役のステラン・スカルスガルドは、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』で主人公の才能を見いだす数学教授を演じていた。『デューン』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズでも知られる。
科学者ホミュックを演じたエミリー・ワトソンは、『奇跡の海』などで高く評価された英国の実力派。
消防士の妻リュドミラを演じたジェシー・バックリーは『ロスト・ドーター』などで知られ、動物の処分に動員される青年を演じたバリー・コーガンも、『イニシェリン島の精霊』などに出演している。
誰もが「スター俳優として目立つ」ことより、その時代に生きた人間として画面に存在することを優先していたように思う。
作品は2019年のエミー賞で19部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、脚本賞など10部門を受賞した。
あの重苦しく、目を背けたくなる物語がここまで高く評価されたのは、史実の重大さだけが理由ではない。脚本、演出、美術、俳優、現地撮影、そして実際に生きた人々の証言が、一つの作品として高い水準で結びついていたからだろう。
真実を残すのも、結局は人間だった
その1では、チェルノブイリ事故を「原子炉より先に、組織のブレーキが壊れていた事件」と捉えた。
その2で見えてきたのは、国家や組織が真実を隠しても、それを記録し、伝えようとする人間がいたということである。
レガソフは録音を残した。
グバレフは伝える役割を担った。
アレクシエーヴィチは、忘れられかけた人々の声を集めた。
そしてクレイグ・メイジンたちは、それらの断片を拾い集め、世界中の視聴者に届く物語にした。
事故の収拾を支えたのも、真実を後世へ残したのも、最終的には一人ひとりの人間だった。
『チェルノブイリ』が描いたのは、嘘の代償だけではない。
その嘘に埋もれた現実を、誰かが必死に残していたという事実でもあった。

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