HBOドラマ『チェルノブイリ』を観た。
当時の世界観を見事に再現した映像に圧倒され、目が離せないほどの緊迫感に引き込まれた。そして、人間社会に潜む矛盾を突きつけられ、激しく魂を揺さぶられた。
これは単なる原発事故の再現ドラマではなかった。
巨大事故を生んだ技術的欠陥と組織の腐敗、さらにソ連という政治体制が崩壊していく構造までを、一つにつないで描いた作品だった。
例によって何時間もChatGPTと壁打ちし、多くの学びがあったので、2回に分けて当ブログにまとめていきたいと思う。
事故を起こしたのは原子炉だけではない
事故当夜、4号炉の制御室で安全試験を事実上指揮していたのは、副技師長アナトリー・ディアトロフ。
試験条件はすでに大きく崩れ、原子炉は極めて不安定な状態にあった。それでも彼は部下の警告を押し切り、規則や安全基準を乗り越えて試験を強行した。
私も小さいながら技術系組織を指揮する立場にいるが、こんなことは到底あり得ないと思った。
副技師長一人が、
- 規則を無視する。
- 部下の技術的判断を威圧で封じる。
- 中止条件を超えて実験を続ける。
- 安全より成果と出世を優先する。
そんなことができてしまう。その時点で、組織としてすでに破綻している。
軍事・宇宙・核兵器では世界最高水準にあった超大国が、原発という途方もないリスクを、個人経営のレストランが食中毒を起こすようなタッチで扱っている。その落差が恐ろしかった。
技術力が低かったのではない。高度な技術の上に、驚くほど幼稚な組織統治が載っていたのである。
最後の安全装置が、実はアクセルだった
ディアトロフは重大な規則違反を犯した。しかし彼も、最後には緊急停止ボタン「AZ-5」を押せば、原子炉は必ず止まると考えていた。
彼なりのリスクマネジメントがあり、ただ無謀なことをしていたわけではないのも分かる。
ところがRBMK炉の制御棒には、炉内へ挿入される最初の部分に黒鉛が使われていた。黒鉛が水を押しのけることで、挿入直後の数秒間だけ核反応を強めてしまう構造だった。
本来ブレーキであるはずの緊急停止装置が、特定の危険な状態では、一瞬アクセルになる。
しかも、その危険性は過去の原発ですでに観測されていた。それにもかかわらず、設計機関や原子力行政は、その意味を運転現場へ十分に知らせなかった。
つまり、ここのリスクマネジメントができていなかった。上層部が現場感覚を持たないまま、机上で判断してしまったわけだ。この判断がもっとも罪深いと私は思う。
その背景には、コスト重視、燃料効率や出力の優先があった。安く上げるための設計が、緊急停止時に致命的な弱点を抱えていたのである。
事故の構図は、
個人の出世欲と威圧的な指揮
+ 規則を軽視できる組織風土
+ 国家が隠していた原子炉の欠陥
= 爆発
だった。
ディアトロフは実験を成功させて上司の評価を高め、その後に空く椅子へ自分も座ろうとしたのだろう。そのためにリスクを取った。これもよくある話だ。
しかし、彼が最後に頼った安全装置には、本人の知らない危険が隠されていたのだ。
なぜ欠陥は隠されたのか
欠陥を公表すれば、稼働中・建設中のRBMK炉を止め、制御棒を改修しなければならない。
それは発電量の低下、莫大な費用、設計者や研究機関の責任追及、そして「ソ連の原子炉は安全である」という国家の威信の失墜につながる。
そこで危険性は過小評価され、改修は先送りされ、情報は組織内部に閉じ込められた。
作中では、欠陥に気づいて論文を書いた技術者が左遷され、その論文も握り潰されたことが示される。史実は、一人の悪人が命じた単純な陰謀というより、秘密主義、縦割り、予算、面子、責任回避が積み重なった組織的隠蔽だったようだ。
そして事故後に裁かれたのは、主として発電所の現場幹部だった。
いわゆるトカゲの尻尾切りだ。
欠陥を把握しながら現場へ知らせなかった設計機関や原子力行政の上層部は、ほとんど刑事責任を問われなかった。
そうならざるを得ない理由も分かる。
責任を上へたどれば、最終的には共産党と国家そのものへ行き着く。司法も監督機関も党から独立していない以上、事故を生んだ組織が、自ら調査し、自ら裁く範囲を決めることになる。
全体主義の官僚は、民主主義国家の官僚とは比べ物にならないほど無謬性を重んじるのだ。
個人の規則違反は裁けても、体制が生んだ構造的な犯罪は裁けない。
党が決め、秘密警察が黙らせ、裁判所が追認する。
三権分立ならぬ、三権結託である。
だから、レガソフが告発したのは原子炉の欠陥だけではなかった。「裁く側こそが事故の当事者である」という国家の構造そのものだったのだ。
放射能と、長く続く事故
作中でレガソフは、炉心から放出される放射性物質を広島型原爆に換算し、事故の深刻さを説明する。
これは爆発の威力や人体が受ける線量を直接比較したものではない。
広島では核爆発が一瞬で起きたのに対し、チェルノブイリでは原子炉内に蓄積された大量の放射性物質が、火災とともに何日も大気中へ放出された。
ちなみに、広島型原爆には約64kgの濃縮ウランが使われていたが、実際に核分裂したのは1kg弱だったとされる。
一方、チェルノブイリでは大量の核燃料と核分裂生成物が炉内に存在し、その一部が広範囲へ飛散した。
だから事故から40年を経た現在も、セシウム137やストロンチウム90などによる長期的な被曝リスクが残り、居住が制限される地域がある。
爆発そのものだけでなく、数十年、数百年という時間を汚染してしまう。
それが原発事故の恐ろしさである。
グラスノスチとソ連のメルトダウン
事故当初、ソ連は情報を隠そうとした。
しかし、国外で放射能が検出され、事故そのものを隠し続けることは不可能になった。
スウェーデンで発覚するのだが、科学の発達によって、国家がどれだけ情報を囲い込んでも事実は国境を越えてしまう。そのボーダレスな感じが印象的だった。
当時のゴルバチョフ政権は、「グラスノスチ」という情報公開政策を進めていた。
体制側は情報公開の蛇口を少し広げ、国外と国民の不信や怒りを和らげながら、どこまで事実を認めるかというギリギリの線を探ったのだろう。
しかし、一度蛇口を開けば、チェルノブイリだけでは済まない。
スターリン時代の粛清、経済の停滞、官僚主義、民族問題、国家が積み重ねてきた嘘までが、次々と表面へ出てきた。
ゴルバチョフはソ連を壊そうとしたのではない。「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」によって、社会主義体制を立て直そうとした。
しかし、長年封じ込められていた圧力は、彼の予想を超えていた。
この構図は、まるで原子炉そのものだった。
反応を抑え込み続けたことで、内部には巨大な不満と矛盾が蓄積されていた。ゴルバチョフは制御棒を少し抜き、圧力を逃がそうとした。しかし、経済不振、民族問題、過去の弾圧、国家への不信が連鎖反応を起こし、制御不能になった。
チェルノブイリで原子炉が物理的に爆発し、その約5年後、同じ構造を抱えたソ連という巨大な政治システムもメルトダウンしたのだ。
まさに相似形である。
ゴルバチョフ自身も後年、チェルノブイリ事故はソ連崩壊の大きな原因だったのかもしれないと振り返っている。
真実には代償が伴う
レガソフは、真実を語れば自分の地位や人生を失い、家族にまで影響が及ぶかもしれないと分かっていた。
自分のことだけなら、すでに大量の放射線を浴びていた以上、覚悟を決めやすかったかもしれない。しかし、残される家族まで巻き込むとなれば、話は別だったはずだ。
それでも、同じ事故を二度と起こさないためには、現場の人間だけに責任を負わせるわけにはいかなかった。
この作品が最後まで問い続けたのは、
「嘘の代償とは何か」
ということだった。
国家は、面子を守るために欠陥を隠す。組織は、目標を達成するために警告を無視する。上司は、出世のために部下を黙らせる。そして小さな嘘を守るために、さらに大きな嘘が必要になる。
しかし、物理法則は権力にも忖度にも従わない。
原子炉は、共産党の都合に合わせて安全にはならない。放射線は、国家機密に指定しても消えてはくれない。
結局、隠してきた真実の総量が、そのまま事故の代償になった。
『チェルノブイリ』は原発事故を描いた作品であると同時に、組織が真実を失ったとき、いかに巨大な技術も国家も崩壊するかを描いたドラマだった。
そして最も恐ろしいのは、これがソ連という特殊な国だけの話ではないことだ。
安全より成果を優先する。上司に異論を言えない。問題を報告した人間を遠ざける。責任を現場へ押しつけ、組織上層部は守られる。
その芽は、どんな会社や組織にも存在する。
だからこそ、これは過去の原発事故の物語では終わらない。
組織を指揮する立場にいる人間にとって、自分の組織にも同じ「制御不能へ向かう構造」がないかを突きつけてくる、恐ろしくも、大変勉強になる作品だった。
その2に続く。

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