映画『ある男』を観終わった後、いつものルーティンでChatGPTと感想や考察について壁打ちした。
本記事は、その対話を通じて整理された感想をまとめたものである。
原作はオーディブルで聴いていたため、大まかな展開は覚えていた。
そのため、「ある男」の正体を追うミステリーとしてではなく、俳優たちの演技や作品全体の空気感に集中して鑑賞することができた。
宿命と向き合う
改めて感じたのは、この作品が描いているのは戸籍やなりすましではなく、「変えようのないものを背負って生きる人間の姿」だということだ。
2歳の息子を亡くし、離婚を経験し、ようやく掴んだ幸せさえも再び失う未亡人の里枝。
殺人犯の息子として生まれ、自らの顔を見るたびに、逃れられない「血筋」を突きつけられる「ある男」。
そして、自身の出自や家族の問題に揺れる弁護士の城戸。
誰もが、自分では選べなかった何か(いわゆる、宿命)を抱えて生きている。
その苦しみや絶望、喪失感を、日本を代表する演技派俳優たちが見事に表現していた。
特に妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝の演技は素晴らしく、登場人物たちの心がそのまま伝わってくるようだった。この3人のキャスティングは秀逸であった。
ちなみに本作は、日本アカデミー賞で最優秀作品賞をはじめ数々の賞を受賞している。そして、この3人もそれぞれ演技部門の最優秀賞に輝いている。
何もかも壊してしまいたいほどの感情を抱えながら、それでも静かに日常を生きる。
その姿に胸が締め付けられた。
また、円熟味を増し、さらに貫禄をまとった名バイプレーヤー・柄本明。人気の清野菜名や仲野太賀を脇に配する贅沢なキャスティングも印象的だった。
心を置いてみる
ChatGPTとの壁打ちの中で特に印象に残った言葉があった。
「たとえ戸籍が消えても、たとえ名前が変わっても、鏡を見れば自分がいる。記憶も消えない。父親のことを知っている自分も消えない。」
「ある男」の苦しみは戸籍や制度の問題ではない。逃れられない過去や出自、自分自身との葛藤にある。
そして、それは「ある男」だけではなく、里枝も城戸も同じである。
この作品の登場人物たちは皆、「消したい過去」「選べなかった出自」「背負いたくなかったもの」を抱えて生きている。
程度の差こそあれ、それは私たち自身も同じなのかもしれない。
やり取りの中で、私のモヤモヤをうまく言語化してくれた。
そして、特に心を揺さぶられたのは、名前を変えて行った「ある男」の苦悩だ。
そこで、彼の心境を察し、そこに心を置いてみた。
殺人犯の息子として生まれ、自らの顔を見るたびに父親を思い出す。年齢を重ねるにつれ、鏡の中の自分がますます父親に似ていく。その度に血が逆流するほどの嫌悪を覚えたのではないか。
人生で何か失敗するたび、それは自分の能力や努力の問題ではなく、父親から受け継いだ血のせいなのではないか。そんな絶望に何度も襲われたのではないか。
腕っぷしも強い男である。反社会的な世界へ身を置くことが頭をよぎったこともあったかもしれない。
あるいは、自らの過去を隠さず受け入れ、世間に晒しながら生きていく勇気を持てない自分自身を責め続けたのかもしれない。自死を考えたこともあっただろう。
なお、その複雑な内面を、窪田正孝は静かな佇まいと、鏡に映る自分の顔を見つめながら葛藤する姿、そのコントラストだけで表現した。
想像を絶する葛藤がその背後にあった。彼の演技の向こう側にそれが見えた。
彼は多くを語らない役柄だ。それでも彼の絶望や混乱は痛いほど伝わってきたのだ。
原作と映画、それぞれの結末
原作と映画では結末のニュアンスが大きく異なる。
原作では城戸(弁護士)は自らの出自や人生と向き合い、地に足をつけて生きていく決意を固める。
一方、映画では妻と別れ、戸籍を変えて行った男(ある男)に自らを重ねるような余韻が残される。
私個人としては原作の結末の方が好みである。
城戸が抱える悩みは決して軽くはないものの、多くの人が何らかの形で抱えている類のものでもある。
だからこそ、自分自身の人生を引き受けて前へ進む原作の着地の方に共感した。
平凡で普通であること
観終わって、ChatGPTの壁打ちを終えて心のモヤモヤを整理した後、そこに残ったのは、「平凡で普通であること」の有り難さである。
家族がいて、日々を穏やかに過ごせる。それは決して当たり前ではない。
当然、日々さまざまな問題は起こるし、悩みも人並みにある。しかし、本作で描かれる境遇や状況と比べると、その多くは取るに足らないことのようにも思えた。
今後もよりいっそう日々を大切に生き、平穏に生きてられていることに感謝し、そして家族を大切にすると誓う。

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